まださなぎ(旧)

誰かさんの蝋の翼。気負わず気楽に書いてくよ。

人の信仰を知る楽しみ

新年あけましておめでとうございます。


昨年は大変お世話になりました。
去年生まれたこのブログも、ついに二年目を迎えることになりました。


ふたつ目の暦を迎えるにあたっては、
さらに新規、さらに新奇。

溢れ出る知識欲のまま、混沌なる開拓を続けていきたい所存にありまする。


(迎春的な画像)


続きを読むを挟んで、以下本題。



さて、今回の記事を書いたあらまし。

yamanosulv3.blog.fc2.com

いつも仲良くさせてもらってる方が、こういう記事を書いていたの。


いやあ、感服したね。

これは言い表すなら「歴史的観点から宗教を見つめる」ことだ。



似た対象を見ていても、こうも違う見方があるのか。

そして、僕がなんと狭い見方で満足していたのか。


いろいろ感じさせられることがあって……。
はっきり言えば発奮しました、はい。


ので、僕も自分の再確認のために、
これまで行っていたやり方を書こうと考えた。

あらましはそんな感じだよう。

はじめに

萌え語り」ってものを見るのが、僕は好き。

あれには「これが好きだ!」「これが大事だ!」と主張してやまない、
純粋な心の動きが詰まってる。


同じように、僕は「人の心の動き」を見取るのが好き。


心理学の話もそうだし、行動経済学の話もそうなんだけど。

人の心の不可解な動き方」には、不思議な魅力が詰まってるように思えるの。



だからこそ、僕は宗教心理についても好き。


ああ、この人はこういう信仰を持ってるんだ……!
といった感じに、人間の心の深い部分を少し感じ取る。


僕の「信仰を知ることを楽しみ」を簡単に言い表すと、
そういう感じなんだよね。


この記事では、その楽しみ方を説明できれば……と思っているよ。

とっかかりとなる部分

まずは、前提となるとっかかりとして。

人の話は噛み合ってるようで噛み合ってない」と聞いたことはない?


他の人の会話によーく耳を澄ませてみると、
会話が噛み合ってない、でも噛み合ったように進んでる」場面を見かける。


例えば、そうだね。

Aさん「年も明けて、最近めっきり寝起きが辛いんだよ」
Bさん「そうだねえ、いきなり気候が変わったようだ」

Aさん「わかるわ、それー。この間近所の川がひからびてて。もう。暑すぎ」
Bさん「……ごめん、aさんってどこの国に住んでたっけ?」

Aさん「え、オーストラリアだけど?」
Bさん「ヒント:日本は北半球で、オーストラリアは南半球」

こういう感じにすれ違ってる場面。
たまにあると思わない?

一見通じてるようで、「前提が食い違ってる」わけになる。


これは普遍的なこと。
……で、宗教の場面ではさらに頻発するんだな、これが。

「信仰」の隠れ方は巧妙

信仰って言葉がある。
信仰心とも言うね。

この言葉はわかりやすいようでわかりにくい。
個々の場面での用法が、意外と違ってくるからだ。


ここでは、「信仰 = 人間の『容易には譲りたくない大切な部分』
という意味合いで話すよ。



『教義』と『信仰』は別物」。

  • 教義 = 形式的に守るべきルール
  • 信仰 = 個々人の心の動き

こういう違いが、初めにあると主張させて。


で、意外と知られてないことなんだけど。

ぶっちゃけた話、
教義を全部くまなく守ろうとしてる人なんてほぼいない


僕が見聞きしてるのは、主にキリスト教会だけど。
だいたいどこの宗教でも、同じ感じっぽいね。



ほとんどの人は、
ここは守る」「ここは守らなくていい」って線分けを行っていて、
大なり小なり「妥協」してる。

ほんとに敬虔な人でも、どこか妥協点はあるんだよ。いやほんと。


それは悪いことじゃなくて、むしろ自然なこと。

だからこそ、
どこを重視するかにこそ、信仰が見え隠れする」と僕は思ってるの。

教義は同じで、解釈はいっぱい

教義は同じで、解釈はいっぱい。

こと宗教の場だと、この章題のようなことが多発するよね。


つまりは、
同じ教義を守ってるはずなのに、まるきり別の考えのような解釈」ってこと。


大きい部分だと、
「うんたら教派」「なんたら学派」といった、
集団レベルでの分かれ方。


小さい部分だと、
「これくらいはアリちゃう?」「これはモハメド・ナシ」といった、
日常レベルでの分かれ方。



あくまで「僕は」と前置きしてでしか話せないけど。
僕は「解釈の自由あってこそ宗教」だと思うのよね。


いや、もっと言えるな。
僕は「個々人の解釈の中にこそ、宗教が現れる」と思うのよね。


書かれた命令を機械的に受け取るだけなら、
紙に印刷したプログラムコード同然ですよ(暴言)。


人間が脳で受け取って、何かでデコードして行動に移すこと。

この言葉には、確かな意味がある
この教えには、確かな意図がある


そうやって「ばらつきある心で感じて受け入れる」こと。


その部分にこそ、
宗教」の深遠さ/面白さが現れる……と思ってます。

あくまで、僕一個人としてはね。


個々の感じ方を見比べる

ここからは具体的に、他人の心の動きを感じ取る方法について。

あくまで、僕が取ってる方法だからね。


当然だけど、
他人の意見を知るためには、その人の話を聞く必要がある」よね。


そして、同じくらい大事なのは、
その人の立場を知る」こと。

  • 普段の言動
  • 普段の行動
  • 特定状況下での言動の変化
  • 特定状況下での行動の変化

各種もろもろを簡単にプロファイルして、
頭の中で「シミュレーション結果」を出しておくの。


でも、シミュレーションはシミュレーション。


必ずどこかで「あれ、想定と違うぞこれは……」という部分に出くわす。

もしくは、「普段と様子が違う……?」って時とかね。



そういうときってだいたい、「裏に隠れたもの」が現れ出てる時。

特徴的な部分を覚えておいて、またプロファイルに記録。


そんなことを繰り返していくと、
少しづつその人のパターンがわかってくるの。



人間は「自分の言動に整合性をつけたい生き物」だからね。

不整合な部分には、「なにか」が現れ出てるはず。

同じように、「類似する状況でだけ、同じパターンが現れる」ときは?


僕が行っているのってそういうこと。


結局は推測に過ぎないから、
「100%その人を知る」なんて絶対に出来ないけれど。


他人が持つ、奥底での心の動き」を、
どことなく感じること。

これはできる……んじゃないかなーって思ってる。


この記事で言いたかったのは、そういう感じのこと。

おわりに

ぱっと発奮して書きなぐったのは良いけれど、
具体例を出してないから、わかりづらいかも……。


ただ、実際に行ってるのはこういうことなので、
伝わってくれたらいいなあと願いつつ、記事を終えるよ。


まったねー。



試験的紹介リンクコーナー


Ost: Everybody's Gone to the Rapture

宗教的なゲームといえば個人的にこれ。