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まださなぎ(旧)

誰かさんの蝋の翼。気負わず気楽に書いてくよ。

タロット大アルカナ、僕の解釈を聞いておくれよ記事!

 一言で言えば「僕のタロット―その解釈・意味・個人の思想丸出し」な記事だよ。

 ほんとはしっかりとした前置きを用意していたけど、合ってなかったからやめた。

 僕は書きたいように書いたから、君も読みたいように読んでちょうだい。

 

 (「本文はよせいや」って人は、目次から飛んでね)

 

序文 PREFACE

 元々は、他者のタロット解釈が聞きたかった。それもよくある「伝統的な解釈と個人的解釈を違和感なく織り交ぜる」タイプじゃなくて、「個人的な解釈」を旗頭に、好き勝手に連ねて好き勝手に述べられた、好き勝手な読み物が読みたかった。

 でも、ネットを見ても本を見ても、見かけるのは前者の方で、「恥ずかしげもなくトンデモ説を吐く」後者はあんまり見当たらなかった。僕はもっともっと読みたかったのに。

 

 だからこそ、まずは僕自身が求めていたものを示したほうが良いと思った。

 「求めよ、さらば与えられん」とは文語訳マタイ7:7(「與」の字は常用漢字の方に修正)だけど、僕にとってもそうだったら良いと思っている。

 

 僕は、情熱に満ちた「たとえ他人に同意されなくても、自分としては譲れないとんでもタロット解釈」を読み物として読みたい。

 そして、心の中で比較討論したい。そう思ってる。だから、そのままに書いた。

 君がこれを読んで、もし何かを思ったとしたら。

 反論でいい、反証でいい、反駁でいい。何でも良いから僕にタロットの話をぶつけてほしい。

 「これは私の解釈とはちがいますねええええ! 間違いは正してやる、私の意見を受け入れろ!!」と情熱に満ちた君のタロット話を、僕は聞きたい。マジで聞きたい。

 なので、どうぞフォロー内からでもフォロー外からでも異次元からでも、よろしくねっ。 

 

 基本的な図柄としては、ウェイト先生のライダーデッキを想定してもらえるとありがたい。

f:id:dettalant:20160706005159j:plain(←世界でお馴染み、この図柄のデッキだよ)

 これが一番ポピュラーなデッキだし、何より僕が持ってるのそれだけだから。

 たまにマルセイユ版の話が出てくるけど、その場合はWikipedia先生のタロット記事を参照してね。ウェイト版の画像も揃ってるからね。


  正確性をとればローマ数字表記するべきだけど、可読性を考慮してアラビア数字で表記。

 冒頭の()の中には、よく知られる図柄を書き記した。

  僕は正位置と逆位置とかは気にしないタイプなので、カードの持つそれっぽいイメージ優先。もしくは僕個人の思想優先だよ。

 

補足1 ちまちま書いたから、その日の気分とカードの違いによって、文体が統一されていない。が、その文を書いた時の自分の気分を尊重して、あえてそのままとしたよ。……修正がめんどくさかったし。

補足2 魔術師の画像を引用したんだし、他のカードも引用しようかと思った。けど、途中でやめました。図柄を見たことが有る人はわかるだろうけど……肌色成分的に、その。

 当ブログはあくまで健全風味にお送りいたします。

 

0 愚者 THE FOOL

 (崖っぷちに立つ身軽な旅人。お供の犬はいたりいなかったり)

 

 愚者は愚者だ。愚か者以外の何物でもない。だけれど、「自分の愚かさを理解する人は、真の知者である」という理論もある。ソクラテス先生の有名な「無知の知」ってやつ。……ただ、それでも愚者は愚か者以外の何物でもない。

 僕としては、このカードに描かれた存在が愚かなのか賢いのかは、ぶっちゃけ決める必要ないと思う。ただ一つ言えることは、「自分を愚か者だと認めれば、身の回りの全てを楽しめるようになる」ってこと。

 希望も絶望も同じくらい楽しめるようになる、心の余裕の必要性を示してくれるカード。僕としてはそんな感じ。無論、日によって解釈が変わる(文体も変わる)愚者の意見だよ。

 

 と、いった辺りでまとめようかと思ったけれど、ここまで来たら好きなことをぶっこむよ。上記の部分ではわかりやすさを重視したけれど、小難しく語っていいなら別の語り方が出来る。

 世では愚かだと言われているけれど、それを気にしてもいない。むしろそれが良いこととみなす。そこから連想することと言えば……そうだね、老子だね!(強引な帰結)

 老子の六十七章冒頭部分にはこうある。

「世の中の人々は、みな、わたしは大人物のようだが愚かに見える、という。そもそも愚かであるからこそ、大きくありうるのだ。もし賢ければ、とっくにこざかしい者になっていたであろうよ」(「岩波文庫 老子 蜂屋邦夫訳注」より引用)

 西洋生まれのタロットを、東洋思想で解釈するのが強引だと思うなら、イエス先生の言葉も引用できるよ。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者達のものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(新共同訳マルコ10:14-15)

  こっちの方が自然に解釈できるかも。真に愚かにせよ、愚者を装っているにせよ、そこにある重要な部分は、無垢で素直な心だ。人間、知恵を頭からぶら下げすぎると、重くて身動きができなくなってしまう。

 時にそれは固定観念にも呪いにもなって、人をむしばむ。「世にある全ての苦しみは、受け手である人の心が作り出す」とは、ダンマパダにあるブッダ先生の言葉。

 「世に溢れる全てを楽しみたい」なら、愚者の心を会得しなくちゃいけないんだよね。……これがとっても難しいんだけども。

1 魔術師 THE MAGICIAN

 (テーブルの奥に立つ一人の怪しい人。タネがあるかないかはわからないけど、とりあえずイケメン)

 

 (※僕個人へのお題:百合の花の話題禁止)

 魔術師(奇術師、手品師とも)は伝統的に一番打者の栄誉を預かってきたカードで、小アルカナ四つに纏わるものが共に描かれることが多い。

 それもあって色々と考察では良い役回りを与えられるけど……僕的には怪しい。何より見た目と名前が怪しい。

 良くも悪くも「ズル」な部分がありそうに思える。ゲームにおいて「良いズルはバグ技、悪いズルは欠陥」と言われる時代があったように。良いか悪いかを決めるのは人間の側。だけどとにかく、魔術師はズルい。何より見た目と名前がズルい。イケメンがカッコイイ名前なんてズルい。

 

 とまあ、冗談はこの辺りで置いて、真面目に話そう。魔術師は大アルカナを支える始めの柱だ。

 数字も堂々たる「1」。「大アルカナを巡る旅の始まり」だと解釈する人もいるし、「始まりと終わり(世界)とを繋ぐもの」だと解釈する人もいるし、はたまた「旅を終わらせた愚者」だと解釈する人もいる。

 フールズジャーニーについて話すなら、本来は愚者のカードを場所とすべきかもしれない。しなかったけど。ちなみに耳慣れない単語なので説明しておくと、フールズジャーニーというのは「大アルカナ一連の流れを、愚者のカードが旅していく」ものとして解釈する、中々に王道な解釈方法だよ。

 その中だと、魔術師は「愚者の旅を始めさせるガイド」か「旅を最後まで終わらせた愚者の姿」とかってふうに見られることが多い。

 

 で、僕の解釈はどうなのかって? ……はっきり決めれたら、ここまでグダグダ引き伸ばしてないんだな、それが。

 どうにもこうにも、魔術師は扱いに困ってしまう。それは彼が「見た目からはっきりしてそうに見えて」、「実は役割が曖昧」であるから。

 愚者は言わずもがなだし、皇帝に隠者に死神に塔に……と、他の大アルカナは一枚一枚役割がきっちり定められている。だけれど、魔術師はそうじゃない。「万能ガイド」にも、「到達点」にも、「奇跡を起こすもの」にも、「ただの怪しい人」にも……魔術師はどのようにも見ることが出来る。「百合・薔薇カップル仲人おじさん」にも……あいや、禁止ワードなんて一言も言っちゃいないですよ?

 

 でも、「どのようにも見える」ってことは、逆に言えば「どれでもない」ってことでもある。鏡の奥を覗くように、見る人の姿を映し出すと言ってもいい。

 きっと僕が(特にウェイト版のイケメンを)見て、どうしても「怪しいなあ」としか思えないのは、僕の心を映し出しているからだろう。

 神道にも寄れず、仏教にも寄れず、一神教にも寄れず。神秘主義にも、科学信仰にも落ち着けず。ただ疑いの心を挟むまま、魔術師の仕草を見つめてる。

 

 どうせタネを読むことはできないって、わかっているはずなのに。それでも、見つめることをやめられない。

 ……やっぱり、わかんないや。「魔術師は見つめてもよくわからない、全てを持って何も持たざるカード」という辺りで、今は一区切り。

2 女教皇 THE HIGH PRIESTESS

 (腰掛けてこちらを見つめる女性。何かの本を持っている)

 

 女教皇は一般に幻想の存在とされている。ご存知教皇ってのはカトリック教会のトップのことだけど、歴史的に教皇は男性であって然るべきというのがカトリック教会のスタンス。だから伝承の中とか創作とかの中でしか、女教皇は見かけない。

 伝統的な解釈では、知恵の番人とされる。手にしている本は「TORA」(「トーラー」……ユダヤ教における、一番大事なやつ。モーセ五書とも言われる)で、これタロットの「TARO」のアナグラム。そのへんのウェイト先生が強化した部分の解釈は、僕も踏襲してる……というか、そんな特別な解釈は特に持ってないです、ごめんなさい。

 教皇が宗教的な権威の象徴なら、女教皇は宗教的な霊性の象徴。もっと……。

 

 と、まで書いて放置してた時に、一つのご縁から「女教皇は、カトリックの伝統性と表裏一体の幻想性」という解釈案を得た。

 時節が向こうから来たのなら、直進すべきだ。僕はいっちょ、硬い岩(ペトロ)にかじりつく。

 

 カトリックの話をするには、まずカトリックの現実を話すべきだ。

 ぶっちゃけた話、カトリックは今、とても大きな岐路に立たされている。伝統を保持するにはカトリックを取り巻く時代が変わりすぎたし、内に抱える矛盾が多くなりすぎた。色々あるが、とりあえず三つ例をあげよう。

 一つは、ニュースでも大きく騒がれた、神父がいたいけもない少年を……で、バチカンがずっと隠蔽してた……あの不祥事。あの事件は(僕が実際に聞いた限り)日本のカトリック教徒の人の中にも、大きな傷跡を残している。「変わらなければならない」という動力が生まれてくる程には、大きな傷跡。

 二つに、世界的なイスラームの台頭によって脅かされる、「世界一のキリスト教」の立ち位置。これは(宗教界では凄まじい大きさの衝撃となった)「カトリック東方正教会が、約千年ぶりとなるトップ会談」のニュースでも危機感を伺うことができる。

 三つに、LGBT……の中でもとりわけ同性愛者に対する対応。伝統的なカトリックの教義としては周知の通りだけど、「同性愛はダメ……なんちゃう?」って立場。保守的なキリスト教派ではわりと定番の考え方だ。詳しいところを(女教皇の話とズレるけど)説明しておこう。

 

 (イエス先生の言い方のように)はっきり言っておくけど、「キリスト教=同性愛批判」というのは少し違う。

 正確には「保守的なキリスト教会では、同性愛批判の発言が数多く見受けられる」だ。

 秋のちぎれ雲のように分かれに分かれたプロテスタント事情だと、「イエス先生は同性愛者だった」といった珍説から、「私達の解釈では、聖書は同性愛者批判などしていない」というニューウェイブまで現れてる。

 だもんで、一概に決め付けは良くないの。

 

 その中でカトリックはと言えば……「教義的には同性愛ダメ」「一部の神父は明確に同性愛を認めさせようと動いてる」「保守的な神父は強硬に反対してる」といった、旧態依然が残ってる感じ。

 けど、基本的に多くの神父は「『変化を迫る時代の流れ』と『変えちゃいけない大事なところ』」の二つを感じ取っている……という辺りだと思う。たぶん。
 ごめん、僕もこんな話を神父様とお話した経験なんてないから、断言は難しいよ。

 無論のこと、『教義』的にはダメとされてても、カトリック信者の人たちの中では「同性愛を認めるべきちゃうん?」って人もいる。元々日本のキリスト教会の中だと、信者さんたちの(思想の)幅が広い方だからね。

 

 まあ、こんな感じでいろいろあるわけだけど、女教皇はそのあたりの「カトリックが抱える現実」とは真逆の存在に解釈できるんじゃないかな……? ってのが僕の考え。

 同性愛にしても、エキュメニカル(教派一致)運動にしても、それこそキリスト教会が大昔から抱える、「イエス先生は本当に神の子なの? ローマ帝国主催のニカイア公会議の前から、本当にイエス先生は神の子だったの?」という恐れ知らずの子供しか口にしない(できなかった)疑問まで。

 現実に存在する全ての問題を、鏡写し的に内包した……語弊を恐れず言えば「理想と夢の中のカトリック」の象徴として見るのもありなんじゃないかなーって。僕は思うの。

 

 PS.カトリックは「占い・呪いは禁止」の立場なので、実はタロット占いもダメらしい。信者の人の禁止事項だけどね。ま、まあ、まあね、僕はタロット眺めて解釈してるだけだからね! 問題ないよね! それにタロットは「リーディング」あるいは「タロット」であって、他の何物でもないし、うん!

 PPS. タロットが初めに流行したフランスは、結構歴史あるカトリック国。フランス革命期で動乱の時代だったとはいえ……人々が占いの神秘に魅せられるのは、普遍的なことみたい。

 

3 女帝 THE EMPRESS

(豪華な椅子に座っている、ゆったりとした服に身を包んだ女性。お偉いさんっぽい)

 

 女帝は伝統的に母性と愛情と嫉妬(なぜか切り離せない)を兼ね備えた、肝っ玉母さんとされるね。地母神信仰から豊穣の象徴としても……っていけねえいけねえ、今回はノット宗教記事でござんす。この辺はさっくりと端折ろう。

 僕的には嫉妬が重要なファクター。いや、「女性=嫉妬」といったステレオタイプを信じこんでるわけじゃないけれど、ギリシャ神話のヘラさんを代表格として、各地の神話的には「女性=母性&嫉妬」って考えが強いのよね。

 嫉妬深くて押しが強いけれど、比例して愛情も深い肝っ玉母さん。つまり伝統的な解釈そのままってことです。

 

 でも。……僕としては、どこか怖いものを感じる。一番古くて歴史ある背景(地母神信仰)と繋がっているからだろうか、蔵の中の古い古い小箱を開けてしまった時のように、何か居たたまれない気分が湧き上がってくる。

 豊穣の恵みは誰しもを包み影響を広げるものだ。それこそ霞を食べて生きる、お話の中の仙人以外は、生きとし生ける全てのものが恩恵を受けている。その大いなる力を擬人化して、一人の女神として表したのが地母神だ。僕も理屈ならわかってる。

 

 けれど、ギリシャ神話のように人格を持った存在を自らの上に見上げることは、いつ怒りが起きるかわからぬ親の下で育つ、小さな子供みたいじゃないか。

 無機的な、見えざる力なら良いんだ。全てにおいて超越的なもので、全てにおいて人為を抜いたものであれば、僕は心からの平等と自由を望める。平等なる喜びと平等なる痛みを望んでいられる。だけれど、人間的な部分が強いと、どうにもいけない。

 人間はえこひいきの塊で、とても平等なんて期待できないものだ。ギリシャ神話の神様は特に人間らしいから、そこには平等のびの字もない。あるとするなら原罪くらいだろう。(キリスト教ジョーク)

 

 いかんな、女帝の話じゃなくて、僕的神様観の話になってしまった。信仰の話しないとは何処に。

 まとめると、「女帝は地母神。大いなる自然の恵み」「女帝は地母神。何かが怖い」ということで。

 

4 皇帝 THE EMPEROR

 (王冠を被り王笏を手にし、力強く腰掛ける男性。見るからにザ・キングって感じ)

 

 皇帝は絶対のもの。そして、孤独なもの。絶大な権力を持てば持つほど、豪華な装いに身を包むほど、心は荒み顔は軋む。この世の全てを手中に収めたとしても、自らの老いを止めることも、ましてや死神の手を振りほどくことなど到底できやしないのだから。

 「現世での成功」という意味だと、皇帝のカードは間違いなく大アルカナの中でも一、二を争うカードだ。教皇のように側近がハゲてることもないし(失礼極まりない発言)、吊るし刑に処せられていることもないし、ましてや、どこかの愚者とは段違いに裕福だ。

 しかし、だからこそ皇帝は少し悲しい。彼はどうやったっても孤独で、皮肉に満ちた椅子にしか座れない。手にした王笏を手放すことさえ出来れば話は別だけれど、一度得た地位を捨てるなんてもったいないことは、愚者だけが出来ること。

 どこまでいっても皇帝は「孤独な王様」のカードで、「いつか終ってしまう栄光」を示唆しているようにしか、僕には思えないのだ。

 

5 教皇 THE HIEROPHANT

 (豪奢な背景の下で、威厳たっぷりに座る男性。二人の男性が手前に控えてる)

 

 教皇は言わずと知れた、カトリックのドン。根比べなコンクラーベで決められる、最も偉い「最も小さい者」だよ。ということの詳細は女教皇でドカンと長文ぶっ放した後なので、もはや細かい説明は必要ないと思う。

 僕がどういう文章書く気なのかも、もはや細かい説明は必要ないと思う。アレだよ、アレ。アレ、アレ……アレだよアレ! アレ、なんだったっけ……。

 

 女教皇の解釈が「カトリックの信仰に隠れた裏の幻想」の象徴だとするならば、教皇は「カトリックが伝統的に保持してきた権力」の象徴。

 歴史的に西欧社会においては、時に良く、時に悪く、全てを変えてしまう程の影響力を持ってきた。現代では昔(中世あたり)ほどの影響力じゃなくなってるけど、それでも凄まじいものがある。

 

 それで本題。教皇は伝統と権威を併せ持つ、岩の上の教会そのもの。教皇という存在自体が一つの教会であり、一つの法であり、全ての(カトリック)教会の土台。褒めてばっかりだけど、必ずしも良いことばかりじゃない。

 要するに、教皇がどういう人になるかでカトリック教会、ひいてはキリスト教全体の舵取りが動いてしまうんだよね。だいぶ長いこと保守派の教皇が続いたことで、キリスト教の停滞が起きてしまった……と言う人ももちろん多い。

 つまり「教皇カトリック」であることは、良くも悪くもあるってことだ。……って、完全にカトリックの入門話になってる……。

 

 タロット解釈に戻ると、教皇は悪魔のカード(ウェイト版だと恋人のカードも)と図柄の構図が似せられている。や、正直言うと、戦車とも審判とも似てる。ウェイト先生を始めとして、タロット好き・シンボリック好きはそういうの大好きなの。

 だけど話すにはキリがないから、王道に「5」と「15」と絡みあう、悪魔のカードとの関連を解釈することにしよう。ウェイト先生がわざわざ「左手に杖、右手を挙げる、同じ位置に配置された鍵と鎖の対比」と用意してくれたものだ。

 今にも聞こえてくるようだ。「楽園(恋人のカード)にいたアダムとイブは、原初の蛇(悪魔)に騙されて楽園から追放された。悪魔によって罪の鎖に縛り付けられた人間に残された唯一の救いの道は、教皇と女教皇が示すキリストの真理のみである」という解釈に導きたいウェイト先生の声が。

 

 しかし、さすがなるかなウェイト先生、解釈迷宮構築についての抜かりはない。

 逆に疑る目で見れば、「楽園から罪の世界へと貶めた悪魔は、人々に原罪の教えを広め押し付けた教皇キリスト教なのである」とも読める。更に言えば「悪魔の手から抜けだすための鍵は、教皇の足下から抜けだすことしかない。完成された『世界』へと歩んでいくためには、全ての伝統常識から外れる者=真の『愚者』でないといけない」とも読める。

 そして、その全ての道がウェイト先生の手のひらの上。頭をダサいヘアバンドで締め付けられた孫悟空のように、真理にたどり着くまでぐるぐると迷うしか無い。そこがまた、面白い。

 

 教皇のカードは「伝統の良さと伝統の悪さ」を両方内包した、必ず通るべき道。伝統の側へも、革新の側へも、中道の側へも、ここを通らなければどこにも行けない。

 そんなカードであるように僕は思う。

 

6 恋人 THE LOVERS

(伝統的には二人の女性に挟まれた男性と、上から弓を構えるキューピッド的存在の図柄。ウェイト版では、エデンの園で全裸のアダムとイブが描かれた図柄に変更された)

 

 恋人はウェイト先生が趣味(キリスト教神秘主義)丸出しの図柄に変更したことで有名なカードだ。他に変更されたカードの場合は、せいぜいが細かい点と意味合いの変更にとどまっている。が、この恋人のカードの場合、もはや別物レベルで意味合いが変更された。

 伝統的なマルセイユ版の恋人が示す意味合いは、「男も女も情念にかきたてられる、恋のキューピッドの魔力」的なもの。もろに男性が二股かけてる図柄だから、恐らくそこがウェイト先生的にひっかかったんだろうけれど……。

 

 ともかく、ウェイト版に置いては意味合いが大きく変更された。情念なんてどこへやら、「神が創りだした始まりの夫婦。清らかで健全な『罪を持たざる』人の様子」の意味合いとなった。

 僕としては「図柄としてはマルセイユ版の方が好きなんだけど、持ってるデッキはウェイト版ライダーデッキだけだし、でもウェイト版の恋人はキリスト教思想が強すぎるし……」と複雑な気持ちになってしまうので、適当にそれっぽい話をでっちあげることにする。

 

 僕が「恋人」という単語を聞いて思い出すのは、愛欲の女神ウェヌスと、その女神様が人に振り下ろす「ウェヌスのくびき」とも呼ばれる一種の呪いについてだ。

 現代的言い方に意訳すると、「マジ一目惚れ……胸がドキドキしてヤバいし、恋の矢ズキュンだし……」って感じ? ちょっと(言葉選択の)時代が古いか。

 要するに、「恋に落ちる」って言葉の言い換えだ。一目惚れとか浮気とか情欲とか、そういう恋にまつわる諸々を、昔の人は「女神ウェヌスのくびきにかかってしまった」と表現したのである。

 

 「ウェヌスのくびき」が言われたのは古い時代のことだけど、実はこの部分、脳科学的にわりとあってるらしい。

 付き合いたての恋愛感情熱烈なカップルの脳を、MRIスキャンにかける。ヘレン・フィッシャー博士が行った実験はシンプルで、かつ効果的だった。

 

 「恋人のことを思い浮かべてもらう」ことでMRIの結果に現れでたのは、脳の一部分の活発化だった。理性を司る大脳でも、運動機能などを補佐する小脳でもない。活発化が現れたのは、「脳幹」と呼ばれる部分周りだった。

 人間の脳は幾つかの部位で分類されてる。「脳幹」はその大きな分類の一つで、爬虫類時代から生物が受け継いできた、もっとも原始的な生命維持を司る部分だ。

 

 いろいろ細かいところは端折るけど、要するに一目惚れとか熱情とかと表現される恋の感情は、「考えるとか感じるといった事とは次元が違うもの。ましてや、理性でコントロールできるものでもない。もっと原始的な抑えきれない衝動」だそう。

 そのメカニズムは大きく分けて二つ。

 「相手に夢中になる仕組み」と「相手を否定的に思う力を抑えこむ仕組み」。

 

 恋が燃え上がる程に燃え上がるほどに、熱情の機関車は速度を上げて進んでいく。
 「恋愛感情」「性欲」「愛着」、これこそが人を交配と生殖に導く、愛の魔法。……と、いうことらしい。

 

 恋は盲目、恋人は盲目。愛する心を持って生まれた誰しもは、ウェヌスのくびきから逃れることはできない。

 僕の結論を言ってしまえば、恋人のカードはマルセイユ版の方向が最適であるように思う。あ、結局そこなんだ。

 

7 戦車 THE CHARIOT

(二匹の動物に引かれた戦車に乗る、勇ましい男性。背後は振り返らないし、ハンドルは切らないスタイル)

 

 戦車は愚直の極みに見える。恐怖も停止も知らぬ戦車は、並みの猪武者ではない。凄まじい猪武者だ。「兵法を知らぬ猪武者めが」って会う人会う人に言われちゃうタイプ。(唐突な真・三國無双ネタ)

 ……それで全てが終わっていたなら、戦車のカードは幸せにも見えるんだけれど。

 

 伝統の解釈では(ウェイト版)、川を挟んだ奥にある都市は「もう帰れない場所」を、

 どうにも曲がれるか怪しい構造の車輪は「進むことしか許されない運命」を、

 据え付けられたような男性の配置は「離れられない立ち位置」を示してる。

 スフィンクスはエジプト要素(実はタロットの歴史に関係あり)な感じ。

 

 数字の7にも意味がきちんとある。ラッキーセブンの7ってだけじゃなくて、キリスト教ユダヤ教的に7は唯一数って言って、非常に重要な数字なんだよ。
 聖書のマタイの福音書冒頭にも「(めっちゃ長い人名の羅列)こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」とある。(新共同訳)

 十四は七の二倍で、これも重要な数字。

 

 話を戦車に戻すと、このカードは明らかに、道を曲げる気も戻る気もない。この固い決意とエネルギッシュさは、大アルカナで一番。

 しかし、おかしな点もある。白黒二頭のスフィンクスは、互い合わせに別方向を向いていて(逡巡の示唆)、鎧兜と天蓋に施された月と星のシンボルは、夜の夢を望んでいるようにも見える。少なくとも現実をしっかり見据えているようには見えない。

 といった部分から戦車の本質を「葛藤」と見るのは、ネット上で見かけた占い師せんせーの解釈のパクリ。前提を説明したところで、僕としての解釈(という名のイメージ論)を。

 

 どう見ても戦車は悲壮なカードだ。逡巡を抱いている理由は明確で、戦場かどこかに赴くことへの終わり=死の予感からだろう。すでに川を越えてしまって(ルビコン川を渡る)、車輪は前にしか進まない。

 明らかに選択肢は過ぎてしまっている状況でなお、両腕は力なく垂れ下がり、月と星の只中に彼はいる。……夜の夢を見るように、現実逃避をしているのだ。

 

 いずれにせよ、すでに川を渡った戦車の道は、二つに一つ。臆病に死ぬか、勇ましく死ぬか。なんて選びたくない選択肢なんだろう。でも、選びたくなくても、選ぶつもりもなくても、選択を迫られる。この世においては、そういうことに溢れている。

 

 ……唐突ですが、ここで問題。考えなしにここまで書いてしまった僕は、一体どのネタをオチに使うでしょうか。

 A.「神は全てを見ておられる。定められた未来に恐れを抱いてはいけない。アーメン」キリスト教オチ。

 B.「『全ての苦しみは心から生まれる』とお釈迦様がおっしゃられたのは、まさにこういう時のためなのです。合掌」仏教オチ。

 C.「そして、哀れに思ったゼウスは、彼を空に上げてやった。彼は空を彩る星座の一つとなった」ギリシャ神話オチ。

 

 正解は……Dの「宗教パロネタで流す」でした! 

 ごめんね、マジで良い終わらせ方が思いつかなかったの。

 

8 力 STRENGTH

(軽々と獅子を従える細腕の女性。……すごい女だ。)

 

 力と正義のカードは、ウェイト先生が順番を入れ替えたことで有名。僕はマルセイユ版の方が……ってあたりは正義のカードでも書いたから別の話。

 古代ギリシャ以来西洋文化で重要とされてきた、「枢要徳」って考え方がある。かの有名なプラトン先生が提唱した……とかって辺りの詳しい話までは、僕詳しくないけど。

 

 とにかく枢要徳の中では「勇気」「知恵」「正義」「節制」の四つが重要とされて、お分かりの通り正義と節制のカードはタロットの中にもある。

 問題は、後二つだ。「勇気・知恵」の二つについては、解釈する人によってどのカードに定義づけるかが異なってくるんだよね。特に知恵をどこに位置づけるかは激論級なんだけど……それは吊るされた男での話にしよう。

 知恵に比べると、「勇気」をどこに設定するかはある程度定まっている。なにしろこの力のカードこそが、第一有力候補であるからだ。

 

 「力=勇気」って、単純な連想だけじゃないよ。このカードのモチーフの中に、かのギリシャ神話の英雄ヘラクレスが入ってるとされるらしいからだよ。まー、僕は「タロット大全」って定番本読んだ程度のにわかだから、詳しい話はそちらを参照してください……。

 ともかく、力が「勇気」の枢要徳に位置づけられるなら、解釈の方向性を定めるのも簡単だ。勇気は炎にも例えられて、炎といえば小アルカナのワンドスートがあるじゃないか。

 なんて感じで、すぐに連想が繋がるから、力のカードについては王道解釈に近づいていく。

 

 力と、勇気と、ついでに炎。つまりは「へへっ、燃えたろ?」……いや、これ冗談。

 ちょっと良い感じの言い方をするなら、「夜を照らす松明」の例えが伝わりやすいかも。そんなに強い明かりにはならなくても、夜道を歩く唯一の手助けになる。

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 ん、ん……こほん。唐突なアホネタは置いといて、最後に、僕がこのカードについて申し上げたいことは二つだけ。

 「力のカードは、勇気の炎」

 「石柱(ヘラクレスの腕力の象徴)を背もたれにして、(火を吹く棒)として獅子のレリーフ入りの銃を手にして立つ女性」という図柄。僕もこういうの考えてたことありました。という二つ。

 ……タロト好き、すぐMy図像考えてしまうアルヨ。

 

9 隠者 THE HERMIT

(杖をついたローブ姿の老人が、輝くランタンを掲げている)

 

 隠者は道を示すものだと言われている。ランタンは暗闇を照らし、杖は足場を確かめて、老人は知性を注ぐもの。隠遁の賢者三点セットが揃っている。

 タロット解釈でよく使われる理論で言えば、左を向いているのは「過去、精神、内面」を見つめているともある。あとは、数字一桁台の終わり「09」として、一つの時代の終わりを示すというものもある。

 なんにせよ、このカードは隠遁の賢者だ。RPGのように塔の上に住んでいるのか、荒れ野に出て信仰生活しているのかは知らない。穏やかじいちゃんな性格なのか、ごうつくじじいな性格なのかも知らない。しかし、隠遁の賢者であることは間違いないだろう。

 

 ただ(僕として)困ったことに、隠者はテーマがはっきりとしすぎてて、余分な考えが全く湧いてこない。仕方がないから、他のカードと同じようにそれっぽい僕のイメージ論でゴリ押しすることにしよう。

 

 僕の目には、隠者のカードは精神的な旅人に見える。

 高潔な精神を持ち合わせていても、果てしなく苦悩が満ちる五里霧中。星の輝きを秘めたランタンは、かろうじて足下を照らす程度。

 この隠者が左(前述の通り過去・内面)を照らしているのもまた、他のことを行う余裕を持ち合わせていないから。

 右(未来・他人)を助けようとすると、たちまち自らの道を見失いそうだから。

 

 他者から見るときっと、この隠者は外灯程度にしか頼れないだろう。

 同じ道・違う道を歩んでいるにしても、離れている・近づいているにしても、隠者は自らが立つ足下を照らしているに過ぎない。

 

 しかし、時として一番頼りになる人物というのは、そういった外灯のような隠者であったりする。別にさしたるアドバイスも功績もなくても、自らの進む道のはるか先を行く人物。

 「自らが立つ場所もわからない」ような心の迷い子が頼りにできるのは、得てしてそういう人物だ。

 

 これを読んでくれてる君には、そういった心当たりはあるかな?

 それとも、君こそが真の隠者なのかもしれないね。

 

10 運命の輪 WHEEL of FORTUNE

(人生ゲームのルーレットみたいな板を中心に、色々な生き物が大集合)

 

 運命の輪と言えば、運命の女神。運命の女神といえば、ローマ神話の女神フォルトゥナ。タロットの運命の輪はこの女神様がモチーフという話もあるので、上手く循環してる構造になっているかも。

 「運命の女神は前髪しかない」ってことわざもある。別にハゲとかそういうことじゃなくて、やってくる運命を掴みとるチャンスは、前髪一回分しかないってこと。別に剃ってるわけでもないんだからね! 

 ちなみに、中世だとマジで後ろ髪がない絵が多かった。けど、最近は後ろ髪を束ねてまとめてるイメージが多いみたいだってね。時代の流れである。[※10-1]

 

 運命の輪は、人に寄って解釈が真逆の方向を見せる典型的カードであるように思える。元々「規定された運命vs人間の自由意志」のカードではあるのだけれど、前者と後者のどちらを重要視するかで大きく変わってくる。

 少なくとも僕の瞳としては、後者の側を重視する人はポジティブだ。人生の道は自らで切り開く、飽くなき努力と諦めない心が揃えば、「想いはきっと届く、夢はいつか叶う」ってやつだ。[※10-2]

 その解釈の裏には、きっと未来への期待と変革への希望がある。そして、夢は掴めるはずだって考え。

 

 逆に前者の側を重視する人はネガティブだ。人の運命は始めから規定されてるし、小さなあがきをしたところで、神の定めた路線からは外れることができない。ユダヤ教に代表される一神教の悲観的思想は主にこっち。

 僕の解釈の方向性もこっち側だから、冷静で中立的な書き方が難しいけれど……元々個人的な解釈を書く記事だし、僕の考えの根底にある部分も示しておこう。

 ぶっとい聖書の中でも、郡を抜いて僕が好きな部分。「コヘレトの言葉1:8-9」(新共同訳。口語訳では「伝道の書」という名前)を引用しよう。

「何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず

目は見飽きることなく

耳は聞いても満たされない。
かつてあったことは、これからもあり

かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。

 引用しておいてなんだけど、これちょっとネガティブすぎるかも……。

 大意としては「現世的な利益を求めることも、身につけた知恵を誇ることも、結局人間の行き着く運命は一つ(=死神のカード)なのだから、空しいことでしかない」って戒める内容。

 「じゃあどうすりゃいいんだよ!」って思ってしまう僕のような人のために、コヘレトの言葉は3:12で一つの答えを残してくれている。

「わたしは知った
 人間にとって最も幸福なのは
   喜び楽しんで一生を送ることだ、と」

 強固で変えられない運命を知りつつも、天から与えられる範囲で喜び楽しむこと。それが重要だとコヘレトの言葉は……って、あれ? この記事って、コヘレトの言葉の魅力を語る記事だったっけ?

 

※10-1 ちなみにだけど、運命の輪の図柄を擬人化して描くときには、ダイナミックさに欠けても後ろ髪を束ねておくと、ぐっと「わかってる感」が増すと思ってる。そんな「わかってる感」を無理して出す状況なんて無いとも思うけど……。

※10-2 「マール王国の人形姫2 リトルプリンセス」というゲームのキャッチコピー。僕が個人的に好きだってだけで、文脈に合う例えだったかは知らにゃい。

 

11 正義 JUSTICE

 (剣と天秤を手にして、玉座に腰掛ける人物。男性なのか女性なのかさえもわからない)

 

 正義と力はウェイト先生が順番を入れ替えたことと、正義の女神アストライアーとの関連で有名なカード。僕は個人的にはマルセイユ版の「正義=8 力=11」配置の方が好きだけど……まあ、そこは置いといて。

 

 正義のカードといえば、正義の女神。正義の女神といえば、裁判所の女神。と言えば、伝統的に二つの方向性がある。

 一つは「全ての罪を見つめて、真に平等なる正義を示す」ってもの。正義は人間の善悪感を超越したもので、女神様はえこひいきや何もかもを抜いた、真の正義を象徴するって解釈。

 

 もう一つは「目隠しをしていて、罪を見ずに正義を執行する」ってもの。

 こっちは更に二つの意味に分かれる。「罪を見ないからこそ、平等な裁き」か「正義は始めから平等でなく、勝者の側に移ろいゆくもの」だ。

 

 人間的な善悪観は時に矛盾してしまう以上、完全なる正義の人間ってのはありえない。

 人の領域を越えた女神様に何を望むのかは人々の心と時代背景の下で移り変わってきたけれど、少なくとも正義の女神が「正義のシンボル」なのは一定してきた。

 

 で、僕の解釈。僕が思う正義の女神は……「公平じゃない正義」の方。

 正確には「地上で最後まで人間に正義を説き続けたけど、どうしようもなさに絶望して地上を去った」星乙女アストライアーのイメージが強い。

 人間が真の正義を行うことはできなくて、また時代の中でも「人の正義」は移り変わっていくばかり。

 

 そういう僕の基本心理もあって、この正義のカードが指し示す部分も、「時代時代で移り変わっていく正義」だと思ってる。

 偏りがあって当然で、だからこそ人々に「正義」と呼ばれうるもの。

 偏りがないのは水の象徴でもある「節制」の方で、節制は偏りがない故に正義性を失ってる……みたいな感じ。

 だから正義のカードの存在は、各人が抱える独善的な正義」の象徴として受け取っている。だからこそ、僕的には目隠しがあったほうがしっくり来るの。

 

 そう考えると「目隠ししてる正義のカード」と「目隠しのない正義のカード」では、同じ正義の図柄でも、まったく別の正義を扱ってるのかな? いや、ごめん、これ単なる思いつき。

 なんにせよ、僕個人の解釈では「移ろい続ける正義」が主な部分になってますよ、ってことで一つ。

 

12 吊された男 THE HANGED MAN

(枝の茂る木に逆さ吊りにされた男。ひっくり返すと、軽やかに立っているようにも見える)

 

 吊るされた男は奇妙なカードだ。苦難そうに見えるのに、表情はやけに軽やかで、天国にでもいるような顔つきをしている。

 ウェイト版では北欧神話オーディンさんがモチーフに入れられたと聞く。オーディンさんはユグドラシルの木に9日間逆さ吊りになって、大いなる知恵(ルーン文字の解読法)を手に入れた。

 そのへんの神話ネタと絡めて、「吊るされた男こそが枢要徳の知恵を示すカード!」という解釈も存在する。今回はその辺りは置いておくけれど、僕はその解釈かなり好き。

 

 自己犠牲のカードとも、他のカードとも言われるが、単純に受け取るには難しいカードだ。

 僕が昔読んだ漫画では、吊るされた男は「努力と忍耐の達人」と説明されていた。吊るされた男を見るたびに、それを思い出す。伝統的な解釈を伝える上では、実に秀逸な説明だと思う。[※12-1]

 努力は辛い。忍耐も辛い。合わさればなおさら辛い。しかし、完全にそれらをしなければ、未来という山は登れない。それが一番辛い。

 はぁああ、努力したくないようーー! 忍耐もしたくないようーー!

 

 という、めんどくさがり屋さんにも安心(なにが安心かは知らない)。

 僕の解釈の上では、吊るされた男は「努力と忍耐の達人」ではない!

 「他の人にとっての努力と忍耐を、辛いとは思わずできる人」なのだ! ……え、何も変わってないだろうって? いやいや、これがけっこう違うんですよ。

 

 努力ってのは要するに「辛い石積み」で、忍耐も要するに「辛いことに耐えること」。

 しかし、よく言われる通りに「努力は必ず報われるわけではない」んだよね。

 だからこそ努力と忍耐は辛い。……と、これで終わったら解釈も何もないから、ここからが本題。

 

 ここからは、あくまで僕個人が持ってる思想なんだけど。

 

 人生は有限で、まばたきする間に終わりの時はやってくる。

 若い青年も、年老いた老人も、生まれたての赤子も、誰だってそれは同じ。

 

 時が流れることを嘆くのは、沈みゆく太陽を引き戻そうとするくらい無為なこと。

 だけど、その事実に気付くのはみんな遅くて。体の衰えが出てきた壮年になってようやく、意識をし始める。

 そして後で言うのは、同じ言葉。「もっと先に知っておけばよかった」ってね。

 

 人間は、個人の意識の上では自由だ。何をしてもいいし、何をしなくてもいい。

 しかし、誰も後悔だけはしたくない。だからきっと、「未来のための辛い石積み」をしてしまうんだと思う。

 先で後悔しないために、今から行う努力の石積み。けど、それは本当に、後悔を無くす一番の手段になるのだろうか?

 残念ながら僕には、そう思えない。

 

 見えざる収穫の鎌に刈り取られた後、人がどこに行くのかは誰も知らない。

 地底の黄泉、西方の浄土、天上の楽園、無為の消滅。それとも、他の何か。

 死後に何が待っているのかは、誰も知らない。

 しかし、人生が驚くほど早く過ぎ去ることについては、誰もが知っている。ただ、知らないふりをしていたいだけで。

 

 だから僕は、後のことに悩んで「未来のための辛い石積み」をする必要なんて全く無いと考えてる。

 それよりも「今を一番に楽しむ」ことをするべきだ。体が衰えてしまってから、「若かった頃に戻れればいいのに」と後悔しないために。

 ゲームが楽しいならゲームをすればいい、絵を描くのが楽しいなら絵を描けばいい、お話を考えることが楽しいならお話を考えればいい、学ぶことが楽しいなら学び続ければいい。楽しめるなら、何でも良い。

 短い人生の旅人に、「辛い時間」を過ごす余裕は、始めから無いんだから。

 (……しまった、予想よりも長くて説教臭くなっちゃったな)

 と、といったことを僕は常々思ってる。そういう思想があってか、僕の「吊るされた男」の解釈は実に単純だ。

 彼は(ウェイト版の表情的には)「吊るされたいから吊るされてる」んだし、「吊るされることをなんの苦にも感じていない」。

 

 心底楽しい楽しいと吊るされて、楽しみの中で「必要な苦労」を終えてしまう。

 僕にとっては理想のカード。君にとっては……わからないけれど。それでも、ささやかな祈りだけを捧げておくよ。

 「来る最後の一時まで、君が人生を楽しめますように」ってね。

 

※12-1 ガンガンウィングで掲載されていた(僕は単行本で読んだけど)『まほらば』って漫画。名作。僕は何年だって同じ先生の『まなびや』を待つよ! 待ってるよ!

 クリエイターの人は、自分の体を大事にしようね。ひとつ下のカード来ちゃってもいいなら、無理に止めはしないけれど。ファンは年単位くらいなら軽く待てるんだからさ、急がないでいいんだよ。ほんとだよ。

 

13 死神 DEATH

 (左から右へ屍の山を横切って行く、不気味な死の象徴)

 

 Oh Death...Ohh Death...Wont's Spare Me Over...Till Another Year...

 (死神さんや、なあ死神さんや、あと一年だけ許してくれないか?)

 

 初っ端からぶっこんでいくけど、僕にとっての死神の曲といえば、やっぱりこれ。「Oh Death」。名曲だよ……ってのは置いといて、死神の話。

 この世にある全ての物事の中で、一番平等で別け隔てがないのが「死」だ。いつか死を迎えるからこそ人間は人間なのであって、死を持たざる者は、真の人間たる存在とはいえない。

 分厚い神学の本を紐解かずとも、それは間違いのない事実だ。

 

 そして、日常を生きる人々が忘れたフリをしていることもまた、間違いのない事実だ。現代も、近代も、中世も、もっと昔の時代でも。死は「目の前に来るまで、真の意味に気づけないもの」であった。

 一番有名な例は、中世ヨーロッパのペストが猛威を振るった時代だろう。当時の人口の約三分の一もの人々が命を落としたと言われる、とてつもなく死が近づいた状況の中で、人々の気分は完全におかしなものになっていた。

 「メメント・モリ(死を想え)、メメント・モリ! 偉い偉い司祭も王族もかんけえねえ! みんな平等に死ぬんだ、ひゃっはあ!」って連日連夜の大騒ぎ……いや、これマジだからね?

 

 話を戻すと、タロットに描かれる「DEATH」もまた、その時代がモチーフになっているとされている。西洋社会において一番死が身近にあった時代だけに、「来る死の象徴」としてもその時代と繋がっているのだ。

 ウェイト版での図柄は、「白馬に乗った黒騎士が、道端の死者と子供と着飾った司祭とを、区別なしに通り過ぎていく」というもの。

 ウェイト先生がガチガチのキリスト教神秘主義なお人だったのもあって、ヨハネの黙示録(の四騎士の最後・ペイルライダー)がモチーフに加えられている。

 

 「一つの終わりは、新たなる再生に繋がるんだよー」という部分は塔の部分に記述したので、ここでは僕的な、死神と塔の違いを記述したい。

 簡単に結論を言えば、「破壊規模の違い」であろう。死神は「夜明けが来るまでの一夜」のようなもので、塔は「太陽無き極夜の季節」のようなものだと考えている。いや、例えについては咄嗟の思いつきだけれども。

 (こういう言い方もどうかと思うけど)死はありふれていて、小さなことだ。カードの図柄の中ですら、次の始まりが予期されている。だからこそ、次なる再生も小さなものになる。

 塔における破壊は更に力強く、明日の見えぬ破壊となる。だからこそ、次なる再生はより大きなものになる。そんなわけだから……あんまり死を恐れすぎないで。

 

 死神を恐れたって仕方ないよ。人間が、人間である限り、逃れることはできないんだから。

 

 No Wealth,No Land,No Silver,No Gold...Nothing Satisfies Me,But Your Soul...

 (財産も土地も、銀も金も対価にはならない。死神の私を満たしてくれるのは、お前の魂だけなのだから……)

 

14 節制 TEMPARANCE

 (翼を持った人物が器から器へと水を注ぎ変えている。水は物理法則を無視した動きをしてる)

 

 節制はもろに水の象徴のカード。人物の翼は「人ならざる存在」だと示してて、

 非現実的な動きの水はリアルな水じゃなくて「もっと深遠なる何かの隠喩」とされることが多い。

 「あの水は不老長寿の霊薬エリクシルなのだ」とかはその代表例の解釈。

 

 持ってる意味を考えるにも、水の性質を考えるとわかりやすい。

 常に(科学的には例外もあるけど)高所から低所へと流れて、

 常に水面が平行を保ち、

 常に形を変えて一時も同じであることがない。有史以前から人間と共に有り、支えてきたもの。(水飲まないと死んじゃうから当然だけど)

 

 古代インドのブッダ先生、古代中国の老子先生、古代中東のイエス先生と、世界を変える程の影響を与えた思想家たちもみんな水の喩えを使っていた。

 僕は錬金術とか魔術とかは全然知らないから、まだ少しは知ってる(と思いたい)それらの話の方が、すぐ連想できるんだよね。

 

 そういうことで僕は節制のカードを、水の如き「超常的なバランス感覚」の象徴と解釈してる。

 常に下へ下へ、迷いなく流れ落ちていって、また偏りを持つこともない。(力のカードでもあった)枢要徳の考え方と紐付けるなら、節制は「勇気でも知恵でも正義でもない」、固有の魅力が秘められている。

 勇気は燃え上がる行動力を示し、知恵は考えぬかれた合理性を示し、正義は迷いなき堅固性を示す。しかし、ともすれば勇気は猪突猛進でもあり、知恵は机上の空論で、正義は盲目の信仰に終わる。だけど、節制はそのどれでもない。

 情熱に満ちているわけでも、知識を持っているわけでも、信仰を固めているわけでもない。でも、節制は間違いを犯さない。なぜなら、どんな行動もどんな場所も、溢れる柔軟さで快適にしてしまうから。

 

 「節制は何も持たず、何も望まず、それゆえに常なる安寧にいる」というまとめでひとつ。

 これ以上を語ろうとすると、老子を紐解いて、タオと格闘しなきゃいけなくなっちゃうの……。

 

15 悪魔 THE DEVIL

(角を持つ異形の存在の下で、二人の人間が鎖に繋がれている)

 

 悪魔は誘惑の象徴とされる。でも、本当にそうなのだろうか?

 

 まず前提部分。悪魔は言わずと知れた、西洋文化における「悪魔」を象徴するカードだ。

 ウェイト版においては恋人のカードと対比される構図になっていて、なおさらわかりやすくキリスト教色を帯びている。

 

 正統派解釈において、タロットの悪魔が象徴するところは、やはり「誘惑」と「悪の鎖に繋がれし人間」。

 悪魔は常に人間を悪の側へと引きずり込もうとしていて、その誘惑に意識的に対抗しなければ、人間は鎖に縛られたまま。

 そして、人は元々、楽園追放の原罪を背負わされているのだから、皆々は罪を洗い落としてくださるイエス・キリストの水を受けなさい……。というのがキリスト教の基本の考え。

 そのネタで語るのも面白そうだけど、今は別の語り口を採用することにしよう。

 

 僕が語りたいのは、タロットの悪魔がもうひとつ抱える、「何がなんだかよくわからないもの」という意味合いについて。

 意図も目的も、存在も思考もよくわからない。しかし、人を何かの意味で縛ってる。

 僕はそれを、一概に「悪への誘惑」ってだけじゃなくて、世に溢れるだいたいのことにも繋げられるんじゃないかと思ってる。というか、書いてる最中に今思った。

 

 人はいつもいつも、何かに縛られている。「自分はこういう人間だ」とか「他人はこう期待している」とか「あの人もこう思っている」とか「僕はこう思ってる」とか、典型的な例を挙げるだけでも枚挙にいとまがない。

 縛られていることに気付いた時には、もうがんじがらめになっていて。前に進むことも後ろに下がることもできずに、ただただ立ち尽くすしかできないでいる。

 なんて袋小路に突き当たった人は、世の中にありふれている。僕も見たことあるよ。

 

 だからこそ僕は、悪魔のカードは「自らを縛る何か」を暗示するカードだと思ってる。

 「自らが縛られていると知る囚人」と「何も知らない囚人」のどちらが幸福なのかは、僕にはわからないけれど。少なくとも僕としては、自分の運命くらいは知っていたいかな。

 それが、どんなに悲しいものだったとしても、さ。

 

16 塔 THE TOWER

 (高い塔のてっぺんに、力強い雷が突き刺さる。幾人か身を空中に投げ出している)

 

 一般に塔のカードは、大アルカナで一番不運なカードとされている。(僕は正位置・逆位置気にしないスタイルだけど)「正位置でも逆位置でも、どちらにせよ悪い意味がある」とよく言われているからだ。

 でも、僕はここでは「本当にそうだろうか?」という疑問を呈したい。

 悪いと言われると良く見ようとしてしまうあまのじゃくさは、僕が持つ108の悪い癖の一つなもので。

 ただその前に、このカードを理解する上で必要な知識を共有しておこう。前提を共有しないことには理論は伝わらない。

 

 伝統的な解釈では、崩れていく塔を「バベルの塔」とする解釈と、「神の家」とする解釈の二つがある。その二つのどちらでも変わらないのは、雷が「神の力の象徴」であることだ。

 実際のところバベルの塔は雷が落ちたのでなく、言語の混乱によって建設中止されたのだけど……そんなところは良いのだ。雷は世界中の神話において「神の力の象徴」なのだ。何より、雷の方が派手でカッコイイじゃないか、うん。

 

 それで僕の解釈だけど……まず「大いなる破壊」が示されてるのは間違いない。

 あ、やめて、まだ石を投げないで。続きがある、続きがあるから。

 

 こういう喩えをすると不謹慎かもしれないが、誰かの家が火事で全焼したとしよう。

 家が焼けただけでも、家族が誰か犠牲になった想定でも、もっと悲惨なものでも良い。その不運はたしかに不幸だ。しかし、所詮幸不幸など人間がそれっぽく決めるだけのことであり、本質はその先にある。

 もし焼け跡から立ち上がる気力を出せたなら、新しい家は古い家よりも良くなるだろう。もし悲しみから立ち上がる気力を出せたなら、その人は新たに生まれ変わるだろう。

 

 破壊と再生は一枚のコインのようなもの。表の次は裏が出て、裏の次は表が来る。少し確率に偏りが出ても、いつかは必ずひっくり返る。

 塔のカードはたしかに大アルカナで一番の破壊だ。しかし、一番の破壊の後には、一番の再生が待っている。


 一つの破壊を恐れるな。一つの再生に固執するな。

 波打ち際の砂の城はいつか崩れる定めにあるけれど、だから「始めから城を建てない」ことが、一体なんになるというの?

 禍福はあざなえる縄の如し。僕の塔解釈だと、そのことわざがぴったりハマってくれるんだ。

 (……やばい、また説教臭い文章になっちゃったや)

 

17 星 THE STAR

 (星空の下、裸体の女性が大地と湖それぞれに二本の水を注いでいる。アニメその他でタロットが出てきた時、小さく修正されてる確率ナンバーワンなカード)

 

 星のカードから、大アルカナは壮大な終わりへと一気に駆け上がっていく。

 フールズ・ジャーニーでは「塔の破壊によって全てが失われた後、暗闇の中にかすかな星の輝きが現れる」というものとされる。

 その他にも「注いでいる水は節制との関わりがある」「月はひとりでに輝けないが、星は自ら光を放つ」など、他の大アルカナと絡めた連想が多いカードだ。

 

 星と一言に言っても大なり小なり様々なので、単純に天体的な星と絡めるのは難しい。とりあえずここでは、北極星に例えることにする。理由は僕が北極星(各地の信仰的な部分も含めて)好きだから。個人の解釈なんてそんなものさ。

 説明不要だとは思うけど、北極星は常に北にあって(少なくとも人間が見る限りは)動かない星のこと。だからこそ、世界各地で方角を知る指標に使われてきたし、信仰の対象にもなってきた。ここでは信仰の話はしないけどね。

 話を戻すと、北極星は「かすかで」「小さくて」「探さないとわからない」けど「迷子が一番頼りにできるもの」。星ってカードもそういうものじゃないかと、僕は解釈してる。

 

 いつの時もさして頼りにならないけれど、いつの時もそばにある。

 姿を変えることも、目を焼き焦がすこともなく。ただそばにある。それが真に重要であると人が気づくのは、全てを失ってから。

 皮肉だけれど、多くの人が通ってしまう道だ。全てが瓦解した後の暗闇は、いつも永遠に続くように思えるけれど。幸いながら、見上げれば星はそこにある。

 

 もし君が「全てを失ってから気付くのなんて嫌だ、バカげてる」と思う強欲さんならば、冬にでも夜空を見上げて欲しい。

 都会の真ん中であったって、見ようとすれば星は見えてくる。

 逆に、見ようとしなければ、一つたりとも星は見えやしない。

 

 何事も、同じことだとは思わないかい?

 

18 月 THE MOON

 (空の月を見上げる二匹の犬。あとザリガニ)

 

 月は幻惑と幻想の象徴。夜毎に移ろい、満ちては欠けてを繰り返す。満月の日にもなれば、犬は遠吠えをするし、狼男はもじゃもじゃになるし、ザリガニも陸に上がる。

 (そっちの部分ではほとんど触れなかったけど)女教皇と戦車のカードにも月のモチーフが描かれてて、やっぱり幻想の象徴になっている。月はいつの時代も人と共に寄り添っていて、いつの時代も人を狂わせてきた。少なくとも中世の頃は、かなり信じられてたらしい。

 

 あまり関係ないけど、月のカードを見るたびに、僕は「幻影ヲ駆ケル太陽」ってアニメを思い出す。

 タロット・百合・魔法少女の三拍子揃ったアニメなんだけどね。明示的にも隠喩的にも、月のカードが象徴的なアニメなんだよ。ちょっと、いやかなり、どシリアスだけど……名作だよ。

 

 さて、詰め込みたかっただけの好みの話はともかく。

 タロットカードの方に戻ると、月のカードも、ウェイト先生が大きく手を加えなかった図柄で有名なカード。お月さまはもちろんのこと、ワンちゃんも続投、ザリガニ君も続投。

 「月といえば、太陽の光を受けてしか輝けない〜〜」とかって話を繋げようと思ったけれど、もう一度同じ話題(しかも百合方向)に突っ込む予感しかしないので、他の部分を入れます。

 

 月のカードの意味合いは、良くも悪くも曖昧で、なおかつネガティブな意味の方が少し強い。(僕はやっぱり正位置逆位置気にしないタイプだけど)伝統的に正位置がバッドな意味で、逆位置がグッドな意味だとされる。が、逆の場合も多いので、深く気にしないで良し。

 曖昧さこそが、良い点でも悪い点でもある、月の全てだ。

 

 僕としてのイメージは、水面に映った月を覗くよう。

 風がそよぐたび、魚がはねるたび、鳥がおりるたび、水面はゆれて、月影はゆがむ。

 そんなふうに月のカードははっきりとせず、尾を掴ませてくれもしない。

 

 ……ちょっと良い感じに言えたんじゃないかと自画自賛したくなったけど、続きの文章がまったく思いつかなくなってしまった。

 あんまし明確な言葉にするには向いてなくて、薄ぼんやりとした感覚でしか伝わってこない。月のカードってそういうもの。そういうものだから…ここで終わっても仕方ない。

 そ、そういうことにしといてね。おねがいね。

 

19 太陽 THE SUN

 (仰々しい太陽の下に、ひまわりと少年の姿。伝統的には双子の少年で、ウェイト版では白馬に乗った少年ひとり)

 

 (※僕個人へのお題:『幻影ヲ駆ケル太陽』関連の話題禁止)

 太陽は見るからにカラッとしたカードだ。

 暑苦しい程の熱性と、人をなぎ倒す剛性と、全てを明るみにする感性。未来性と将来性と可能性に満ちている。え、全部同じような意味だって? 気のせい気のせい。

 

 とまあ、くだらない言葉遊びは置いておいても、このカードは太陽の象徴に他ならない。
 太陽は普段良い力の象徴として扱われているけれど、事実を見れば、そうとは限らないことがよくわかる。

 植物の光合成を生み出すのが太陽の力ならば、渇水を引き起こすのもまた太陽だ。「良いか悪いか」を決めるのは人間の考えであって、太陽はそれの届かない場所にある。

 そんなわけで、伝統的には太陽のカードについては、大体はお天道様の性質にもとづいて解釈されることが常だ。僕の解釈もそれに習う。

 

 まー……太陽と言ったら、自己中心的な部分だよね。

 愛を振る舞うにしても、人を助けるにしても、誰かを妬むにしても、罪を焼き焦がすにしても、何もかも自己中心的。「中心になろうとするから」じゃなくて、「太陽の周りに星が回る」のが太陽系の由縁だ。自然と人を惹きつける魔性を持ってるんだよね。

 それを上手く描いたタロットアニメが……おっと、いけない。危うく冒頭のお題を忘れるところだった。

 

 で、そろそろ僕の解釈。

 太陽は意識せずに周囲を照らすし、意識せずに周囲を焦がす。そこに深い意図なんて無いし、そこに詳しい理由なんてない。ただ単に、太陽の輝きを受けて、喜んだり苦しんだりしている人間が「きっとこのためだろう」と決めつけているだけ。

 人間は何も無い所に「何か意図が有るはずだ」と見出してしまう生き物だ。それがあって太陽はいつの時代も神格化されてきたし、同じ人間同士だって疑りあってきた。

 

 太陽のカードが描くものは、「無為に注ぐ光」に見える。いや、書いていたら、今見えてきた。

 意図なく与えられた物であっても、人間はどうしても「裏の意図があるはずだ」と勘ぐってしまう。

 そして、勝手に導き出した勝手な答えを、「これが真の意図なのだな!」と思い込んでしまう。人間としては、仕方のないことなんだけど。なんだけど、たまにそれが辛くなってしまう。

 

 世界には、意図なく与えられる物の方が多い。そんなふうな事を語りかけてきているように……僕は『真の意図』を発見(と書いて『ねつぞう』と読む)した!

 僕の結論はそういう皮肉にするので、どうぞヨロシコ。

20 審判 JUDGEMENT

 (翼持つ存在が空からラッパを吹き、人々は歓喜を表し立ち上がる)

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る時、その栄光の座に着く。
 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」

(新共同訳・マタイによる福音書25:31-33)

 始めからぶっこんだけれど、それは審判というカードを語る上では仕方ない。聖書のこの節はイエス先生が神の国を語る場面で、丁度有名な「最後の審判」を描いている部分とされている。

 これこそが、キリスト教の真ん中を貫く超重要思想であり、けして切り離せない部分の一つだ。

 

 右におかれた羊(正しい行いをした人の象徴)は永遠の命を受け、左におかれた山羊(悪い行いをした人の象徴)は永遠の罰を受ける。

 世界に、終末の時が訪れて、来る全ての精算の時。

 その時に鳴り響くのが天使のラッパで、その時に死者は棺桶を開けて蘇る。(けしてゾンビ的な意味ではない)

 

 他のカードでは好き勝手に言いたい放題大暴走してきた僕だけど、さすがにこのカードではそうもいかない。名前に意味付け、果ては図柄の上から下まで、何もかもがキリスト教一色だからね……。

 なもんで、今回はキリスト教的な価値観を含めて、審判のカードを語ることにしよう。

 

 先に話したように、キリスト教では「正しき人は救われて、悪しき人は罰を受ける」ことが前提になってて、だからこそ善い行いをしましょうよ、って部分が強い。

 この審判の時が来ると、人生ゲームの最後みたいに、唯一神の「なんかすっげえ判別法」で善悪を図る。

 そして、正しき生き方をしていた人は「それまでの肉体を捨てて、新たな肉体を得て蘇る」とかって言われてる。それ以上の詳細は、人には知り得ないことなんだけれども。

 

 ちなみにウェイト版で復活した人々の肌がグレー(または白)っぽいのも、「それまでの肉体を捨てて〜〜」という部分から来てるんだよ。

 人数が三人(奥に三人)なのは、無論のこと三位一体を示してる。天使のラッパも言わずもがな、聖書の記述通り。
 ね、キリスト教一色でしょ?

 

 僕としての補足的な解釈としては、「精算の時」って言葉がしっくり来る。

 審判は単に「復活」「良い知らせ」「悪い知らせ」とかの意味だとも言われるけれど、本質的には「罪の精算」の部分が強い。

 精算がなければ正邪の判別もなにもないし、何より罪を恐れる理由もなくなる。

 

 まるでステージ型のアクションゲームのように、人生ではその時折々に「精算の時」が訪れる。結果を集計して、判別が終わったらまた再出発。ま、次に待つのは地獄の業火かもしれないけど。

 だから、迎えてみないと詳細がわからないけど、いつかやってくる物の象徴と……僕のタロット解釈そんなのばっかじゃないか。

 反省(猿芸のように)。

 

21 世界 THE WORLD

 (ひとつながりの月桂樹の円の中で、女性のような人間が立っている。周りには四つの動物たちの姿)

 

 苦節一ヶ月。一夜の思いつきからせっせかせっせか書き溜めた、このタロット解釈の旅も、ようやく終わりのカードに辿り着いたよ。

 

 他のカードについては順番を気にせず書いていた。けれど、この『世界』のカードだけは、意図的に最後の最後まで残してたんだよね。個人的な気分で。

 ただしかし、この世界のカードは、まさしく大アルカナの集大成。

 フールズジャーニーにおいても、別の解釈法においても、とにかく世界は「一つの完成、一つの終わり」と解釈される。要するに、大アルカナきっての縁起の良いカードなの。

 

 中央に位置する女性(に見える存在)は何かの中心を意味してて、 周囲の円は明確な何かの繋がりを意味してそうで、周囲の四つの動物っぽいのは、また別の何かを意味してるよう。解釈によって自由に自由に考えられるのが、世界の魅力。

 伝統的な解釈だと、「女性=擬人化された中核」「周囲の円=ウロボロスの輪・永遠性」「周囲の動物=四大元素を司る」という感じになる。もちろん、その他にも様々な解釈が飛び交う、楽しいカードんだよ。

 

 それで、僕はどういう解釈を捏造しようか……と、つらつら考えながら手元のカードを見てたら、ふっと「世界=エンドロール」の考えが浮かんできた。

 ちょうど良さそうなので、その方向で進めていくことにする。

 

 はじめに書いたように、世界は大アルカナの終わりのカードだ。

 タロットの世界には多種多様な大アルカナ順序が存在するけど、世界のカードについては、概ねのデッキで最後に配置される伝統がある。

 その……僕がウェイト版しか持ってないこともあって、他のデッキの詳細な部分について言及することは難しいんだけれどね……。


 そして、僕にとって一番馴染み深い「終わり」といえば、ラスボスを倒した後の「エンドロールの時間」に他ならない。

 ストーリーがどうあれ、システムがどうあれ、エンドロールを見ていると「ああ、終わってしまう」という感覚が体と心を包み込む。ゲームにまつわる至福の時間の一つだ。

 

 フールズジャーニーの上で、ずっと長い旅をしてきた愚者にとっては、この世界のカードそのものがエンドロールになるだろう。

 それまで「この旅はあとどれくらい続くんだろう?」と考えていたのが嘘のように、「ようやく旅が終わるのなら、少しさびしい気もする」と心変わりをし始める。

 今、この記事書いてる僕はまさにそんな感じだ。

 

 最初に愚者のカードについて書いていた時に「カード一枚を五百文字くらいだから……全部で五千文字くらいの記事になるかな!」とか頭の弱い予想してたことも、今となっては懐かしい

(ちなみに大いなる計算ミス=大アルカナは22枚だと気付いたのは、たった数枚で五千文字越えた時だった)

 おおっと、いつまでも無駄にだべっていられない。

 僕の解釈を続けると、世界のカードは、他のカードと切り離された位置にある。

 愚者(0)に魔術師(1)、それから審判(20)までは溝はありつつも、ひとつながりの道が舗装されている。

 だけれど、このカードだけは少し毛色が違う……ふうにも見えるんだ。

 電車で例えるなら、「途中の発着駅」と「終点すら越えた回送電車」ほどには毛色が違う。他のカードには「次のカード」があっても、世界にはそれがない。

 

 一度完成された存在は、もう後にも先にも進めないのだろうか?

 一度旅を終わらせてしまった旅人は、もう腰を下ろすしかできないのだろうか?

 いや、それは違う。一つが終わったのだとしても…………。

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   WRITTEN & POSTED BY まださなぎ

   書いた人 リラ/dettalant

 

  ずっとにらめっこしてたデッキ 「The Rider Tarot Deck」

 

   参考にしたサイト

  Wikipedia先生のタロット関連・他諸々の記事

  尾瀬先生のタロット関連ページ「http://www.lyrical.jp/library/tarot/tarot.htm

  ログミーさんの、ヘレン・フィッシャー先生TEDトーク記事「http://logmi.jp/31460

 

   参考にしたご本(影響がにじみ出た本を思い出せる限り列記)

  伊泉龍一先生の「タロット大全―歴史から図像まで」

  鏡リュウジ先生の「タロット―こころの図像学

  アルフレッド・ダグラス先生の「タロット―その歴史・意味・読解法(新装版)」

  中村元先生の「ブッダの真理のことば・感興のことば」(要するにダンマパダのこと)

  蜂屋邦夫先生の「老子 岩波文庫

  片木智年先生の「少女が知ってはいけないこと」

  NHKスペシャル取材班の「だから、男と女はすれ違う―最新科学が解き明かす「性」の謎」

  永遠のベストセラー「聖書」

 

   引用した諸々の部分

  愚者において 「老子

  同じく愚者において「ダンマパダ」

  死神において 「Oh death(『O death』とも)の英語歌詞」

  複数のカードにおいて 「聖書(訳・引用箇所はそれぞれに表示)」

  魔術師の画像において 「Rider-Waite tarot deck : a 1909 card scanned by Holly Voley (http://home.comcast.net/~vilex/) for the public domain, and retrieved from http://www.sacred-texts.com/tarot

 (要するに『Wikipedia先生が引用してる、パブリックドメインのウェイト版画像を再び引用した』ってことだよ)

 

   スペシャルサンクス

  狐っ子と占いのプロ・「ゆえふー」さん 「http://yamiyome.blog.fc2.com/

 (この記事の発端・女教皇の解釈ネタを提供してくれたのもこの人。感謝です。)

 

  その他、関わりある/なしを問わず、多くの人に感謝。

  もちろん……読んでくれた君にも感謝!

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 ……さて。

 一つの旅が終わった後に、一体何が始まるのか。なんて、単純なことだ。

 世界のカードの、中心を取り巻く円はつりあいの取れた「0」の形をしてる。そして、お馴染みのあのカードは、一度や二度の旅で「愚者をやめる」ような存在じゃない。

 

 「NEW GAME+」を選択すれば、すぐにタロットの旅は再開される。

 楽しみ続ける限り、世界を巡る旅は終わらない。

 言いたかったのは、そういうこと。……じゃねっ、君のタロットライフがより良きものとなりますように!

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